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48人目の赤穂義士

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 こんにちは、教育次長の中井です。 

ときに元禄十五年十二月十四日
江戸の夜風をふるわせて
響くは山鹿流儀の陣太鼓
しかも一打ち二打ち三流れ・・・・・

「吉良殿 討ち入りでござる ご覚悟を!」

 300年以上にわたって人々の心を掴んでいる「忠臣蔵」
  12月の定番となっている忠臣蔵は今まで多数の作品が上映、放映されてきましたが、昨日はこの物語のクライマックスとなる赤穂浪士の討ち入りの日。

  両国の吉良邸から高輪の泉岳寺までたどり着いた浪士たちは亡き殿、浅野内匠頭の墓前に報告、その後切腹して物語は終わります。
  この日、12月14日に泉岳寺では義士祭が行われます。昨日は多くの人出があったことと思われます。

  私も、義士祭の日に泉岳寺を訪ねたことがありましたが、四十七士の墓所へは長蛇の列、近寄ることもできず時間の都合で断念したことがありました。
  その後、機会があり普段の日に再訪しましたが、普段といっても大石内蔵助をはじめとする義士たちの墓前には多くのお花や線香が供えられており、300年以上にわたって人々の心を掴んでいることに何か強いスピリッツを感じました。

  ところで、泉岳寺の赤穂義士の墓所には48基の墓碑があります。吉良の屋敷へ討ち入りした義士は47人、討ち入りしなかったもう一人の義士とは?

  仮名手本忠臣蔵では「お軽」と「勘平」が登場する一編がありますが、早野勘平のモデルと言われているのが萱野三平です。
  勘平は腰元のお軽と駆け落ちし、その後自害すると描かれており、イメージはそれに引きずられてしまいがちですが、モデルとなった萱野三平は主君の身辺警護も担当し、刀も一回り長いサイズを使うなど体格のいい優れた武士であったようです。

 

  江戸城の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけた刃傷事件をいち早く赤穂へ知らせる使者となったことからも頑強で信頼のおける家臣であったと思われます。

  江戸から赤穂まで、当時は14日くらいかかったようですが、そこを早駕籠で僅か4日半で走り抜けています。
 その道中に劇的なことが起こりました。
 江戸から赤穂までは東海道を西へ、更に西国街道から山陽道へと進みますが、三平の実家はその途中、西国街道沿い、今の箕面市萱野3丁目にあります。

(西国街道と萱野邸長屋門)

  先を急いだ旅とはいえ、自分の生家の門前を通るわけですから懐かしさもあったと思います。ところが生家に近づくと辺りはただならぬ様子、何と生家の中では母「こまん」の葬式が行われていたのでした。

  使者としての重責を担う中で母の死に出会うとは、まさに断腸の思いもあったでしょうがお別れもせず、主君の御用大事と再び赤穂へ駕籠を急がせ第一報の役を果たしました。

(赤穂城の大手門 三平もここを通ったのでしょうか)

  赤穂城が開城となった後、萱野の実家に戻ってきた三平は大石内蔵助を中心とする仇討ちの一党に名を連ねていました。ところが父、萱野重利の反対にあったのです。
  萱野の地から播州赤穂の浅野家に仕官することになったのは、父が仕えていた美濃の大嶋家の推挙によるものでした。父は実家の跡を継いでほしいことと、討ち入りに参加することで大嶋家へも迷惑が及ぶことを思慮して江戸へ下ることを許さなかったようです。

  「踏みとどまれば忠ならず、江戸へ下れば孝ならず」と主君への忠義と父への孝行の板挟みとなり苦悩した三平は主君の忌日を選び元禄15年1月14日の未明、自宅長屋門の一室で自刀し27歳の生涯を閉じました。

(萱野邸の庭から見た長屋門 左が自刀したとされる部屋)

  内蔵助は討ち入りに使った槍の先に三平に名を記した短冊をくくりつけて、三平の思いを成し遂げさせた、とか三平の遺書を懐に入れて討ち入りしたとの話もあるように、義士のみんなが三平も共にとの思いであったのでしょう。だから討ち入りには参加できませんでしたが48人目の義士として赤穂四十七士と同じく泉岳寺の墓所にまつられているのだと思います。

  以前、赤穂市で地元のボランティアガイドの方に市内を案内してもらったことがあります。赤穂の市中をグルグル歩き回り、それはそれは熱心な説明を受けました。
 もちろん、赤穂義士の討ち入りや大石内蔵助、大石神社、忠臣蔵に関することは別格の説明で、まるで身内に起こったことをそれも昨日の話のように熱く説明していただきました。

(赤穂の浜 遠くに小豆島も見えます)

  そしてコースもそろそろ終盤と言う時に
「暑い日ですが熱心に聴いていただきありがとうございました。ところでどちらからお越しですか?」
「こちらこそ丁寧にご説明いただきありがとうございました。私は大阪の箕面市からです。」
「えっ、箕面の方だったんですか。本場の方には気を抜けませんね。」
「本場?」

  どうやら箕面と聞いて萱野三平の本拠地、本拠地の人はみんな三平のことは熟知している、萱野三平を熟知していれば赤穂のこともきっと詳しいはず、と勝手に決めつけられて「気が抜けません」ということになったようです。
しかも反対に萱野三平のことを尋ねられ、それも上級問題だったため満足に答えられず少し恥ずかしい想いをしたことを覚えています。

 萱野の生家を見下ろす高台にある三平の墓は、今年市の指定有形文化財となりました。

(母こまんの墓 三平の墓の近くに並んでいます)

(中心あたりに萱野三平邸跡があります)

  教育委員会会議で文化財の指定が決まりましたが、その時の意見として「箕面の子どもたちに三平のことも含めていろんな郷土の歴史を教えるべきだ」がありました。正にその通りで歴史だけではなく、産業のこと地勢のこと箕面が生んだ著名人など箕面のあらゆることについて学んでほしいと思います。
 小学校では社会科や総合学習の時間で箕面のことを幾つも取り上げています。
 その教材として今年から使っているのが「わたしたちのまち箕面」です。

 

  子どもたちが自分たちのまち魅力を学び、自分たちのまちが好きになり、そして題名のように「わたしたちのまち箕面」と自信を持って誇れるようなまちにしていってくれる人に育ってほしいと思います。

 

 

箕面市では、10月から12月まで「子どもたちに残したい箕面の山なみ! みのお山麓保全ファンドに寄附をお願いします!」統一キャンペーンを実施中です。


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