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Channel: 部長ブログ@箕面市役所
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被災地岩手県を再び訪れて

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みなさんこんにちは 市長政策室長の具田です。
 
6月13日・14日と倉田市長、市民安全政策課の職員と共に岩手県を訪問してきました。市長は昨年の5月下旬に訪問してからほぼ1年ぶりの岩手です。3.11から1年3カ月が経ち、現時点での遠隔地からの支援のあり方と、現地の避難所運営など、防災・復旧として箕面でやるべきことなどを改めて実感するため、現地に赴きました。
 
【花巻空港では】
花巻空港のロビーには、各地から寄せられた応援の絵手紙などと共に、宮沢賢治の“雨にも負けず”のフレーズを使ったものもありました。

 
<花巻空港にて(写真)>

【鐵とラグビーのまち釜石市内】
空港から2時間かかって(岩手県は東西122キロメートル。ちなみに大阪府は能勢から岬町まで87キロメートル)、まずは、鐵とラグビーのまち釜石市に到着。山に囲まれた少ない平地に突如現れる広大な敷地を有する“新日本製鉄釜石製鉄所”。煙突からは復活の煙(実は水蒸気)がもくもくと上がっていました。それを右手に見ながら釜石駅の先を左折して橋を渡ると草の生えた空き地が目立ち始める。津波で流された建物の敷地。そして未だ放置されている被災したビルが現れました。あれから1年3カ月も経つのにそのままの状態。もちろん、営業を始めている商店やビルもありますが、当時と比べても、瓦礫は撤去されつつも空き地と被災ビルの多さに、復興の兆しをほとんど感じることはありませんでした。 

<釜石市内の現状>

【おらが大槌 復興食堂】
復興が停滞気味ではあるものの、微かな動きが見えてきています。テントでの営業ですが“おらが大槌 復興食堂”もその一つ。大槌の地元の食材を利用した丼物を提供されていて、夜も地域の盛り場になっているとか。12時半なので、8割ぐらいのお客さんで、ボランティアのかたがたがほとんどの様子。びっくりしたのが、そのとき着ていた、背中に箕面市と書かれた防災服を見て、あるお客さんが“大阪箕面市の方ですか?私の従兄弟が箕面市役所で職員をしています。”とのこと。そのかたは千葉からボランティアで大槌に来られていて、偶然の遭遇にビックリでした。


<おらが大槌 復興食堂>

【箕面市からの派遣職員と】
箕面から大槌町へは、現在、建築職の職員を派遣しています。彼は、昨年度も6カ月間赴任し、被災した小中学校の代わりの仮設学校の建設に携わりました。一旦帰阪したのですが、本校舎の建設にも携わりたいと志願し、この平成24年2月から平成25年3月末までの任期で赴任しています。技術職員が特に不足する中、上司のかたも別の仕事を抱えながら、ほとんどが担当として仕事の判断している状況で、心配しつつも、自信を持って仕事に取り組んでくれています。

 
<箕面市からの派遣職員 延べ9カ月目、年度末まで派遣>

【大槌町】
昨年の訪問時にもブログ(その1 その2)で紹介しましたとおり、町長もお亡くなりになり、多くの職員も死亡や被災しておられ、役場の機能が全滅状態となりました。
改めて、聞いたのですが、緊急消防援助隊(阪神淡路大震災の後に出来た全国の消防の応援組織)の箕面の隊も含む大阪隊が、なかなか応援の来なかった大槌町に入り、初期活動を行っています。そのことで、未だに大阪から助けにきてくれたとの思いが町民の中にもあるようです。当時、津波の被害の象徴だった観光船“はまゆり”が乗っていた民宿にも大阪隊の痕跡が残っていました。その“はまゆり”を復活(当時のように民宿の上に戻す)しようと、復元保存運動があり、たまたまですが、その日の町議会で復元保存のための基金設置条例が可決したそうです。

 
<大槌町全体の様子>

 
<役場の中は当時のまま>

 
<大きな防潮堤が転がる風景>

 
<被災した学校の解体現場>

 
<観光船“はまゆり”の復活をめざす看板(左手前)と民宿(奥側)>

 
<緊急消防援助隊大阪隊の活動の痕跡>

もちろん、復興の兆しも見え始めています。子どもたちは仮設のプレバブ校舎で元気に学校生活をしています。
町長さんからも、最初は町長不在で意思決定がおぼつかなかったが、就任後復興計画を住民の希望も取り入れ、短期間で策定したことや、沿岸部から山を切り開いて造成し、集団移転することが決まったことも説明をいただきました。ただ、総論は決まっただけで、これからが、人員も掛かることだとのこと。他地域からの応援もなかなか難しいとのご発言を聞き、箕面、そして大阪からも是非とも応援を出したいことを申しあげました。

 
<仮設の小中学校>

 
<下校する子どもたち>

 
<碇川 豊 大槌町長さんにエールを>

その後、教育長さんとも意見交換をする中で、ほとんどの小中学校が使えない状態になったことから、この際小中一貫校を建設する意向をお聞きし、小中一貫校の先進地“箕面”として、いくらでも応援することを申し上げました。


 
<大槌町伊藤正治教育長さんと>


【陸前高田市】
三陸海岸最大の平野を誇る陸前高田市だったことが、今回裏目となって広大な被災地となってしまいました。リアス式海岸地域ではほんとうに珍しい広い平地を持つ陸前高田が、見渡す限りのその平地がとことん津波で流されていました。
海から700メートルも離れていた岩手県立高田高校(高校野球にも出た経験が)でも、体育館の建物が基礎から剥がされ、流されて校舎建物に激突した無惨な光景。3階まで完全に流され、市長さんもかろうじて塔屋の上で助かった市役所庁舎も無惨なままでした。
折角ですので、市役所の仮設庁舎に訪問させてもらうと、戸羽市長さんがたまたま居られたので、ご挨拶をさせていただきました。震災の後、災害対策と公務をされている中、奥様を津波で亡くされそれでも、住民のために休み無しでがんばってこられたとのこと。集団移転事業や、瓦礫の処理などなど、遠隔地からでは分からない、国の規制の多さや邪魔臭さに、しっかりと向き合っておられる姿勢を教えていただきました。復興庁ができ、少しはましになったものの、国からの“支援チーム”を入れるとのことで期待したが、2人の役人が“チーム”としてきたとのこと。もの申す首長として、これからも本当にがんばっていただきたいと思います。

 
<県立陸前高田高校 体育館が校舎にめり込んでいる>

 
<陸前高田高校>

 
<陸前高田市役所 屋上の上に見える棟屋の上で市長さんが難を逃れた>

 
<アポ無しで、陸前高田の仮庁舎へ>

 
<突然でしたが、お時間を頂いた、戸羽市長さん>

 
<高田の一本松>

【陸前高田市立長部小学校】
1年前にもお邪魔をしましたが、今回も、その後の状況や、箕面での避難所運営に活かすために、最前線の学校を再び訪れさせていただきました。昨年お話を聞いた校長先生は、異動で居られませんでしたが、当時の教頭先生が居られたのと、別の学校で避難所運営をされた新しい校長先生から話を聞けました。
・ 当時は、水や食べ物の備蓄も無く、途方に暮れたが被災の少なかった地元のかたがたが米や食糧を持ち寄っていただいて、最初の何日かを過ごせた。
・ 被災者の受け入れを体育館にするか、教室にするかの判断はあったが、教室にした。結果として、物資の受け入れが体育館でスムーズにできた。
・ この避難所では、最初から自治会別に別れて教室に避難したので、混乱は無かった。炊き出しなども、被災者のかたがたが自分たちで当番を決めてしていただいた。
・ 通信機器は全滅となり、車で内陸まで走って携帯で市と連絡をとるようにした。
・ 持病のあるかたも、薬も無く我慢するしか無かった。病院も被災し、受診できるようになったのは相当してからだった。
・ 一方、校長先生の避難所では、自治会などのまとまりが無かったので、教職員がまとめ役として相当苦労をした。徐々に当番を決めるなどしてようやく落ち着いた。
・ 改めて、水と食糧の備蓄は必要と感じているので、箕面でもぜひそうされたい。

 
<陸前高田市立長部小学校 校庭に仮設住宅が建ち並ぶ>

 
<陸前高田のボランティアセンターにも立ち寄りました>

 
<ボランティアの心得>

復興が進まない状況に苛立ちながら、それでも地道にがんばっておられるかたがたの思いを重く感じました。ブログにはすべてを書けていませんが、多くの学ぶべき事柄がありました。これからの箕面の防災に必ず活かしたいと思います。
大槌町長さんがまだまだ人手が足りないとおっしゃっているのに、全国市長会からはその情報が全く届かなかったのですが、偶然かも知れませんが、つい先日大槌町から、より多くの職員を派遣してほしいとの依頼が発信されました。何らかの対応を進めたいと思います。
今後も、引き続き遠隔地からではありますが、被災地の支援を行いたいと思います。

 

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