Quantcast
Channel: 部長ブログ@箕面市役所
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2068

箕面のまちづくりと鉄道(1) ~明治時代~

$
0
0

こんにちは、政策総括監の柿谷武志です。
4月1日付けで担当する事務が、北大阪急行線の延伸及び関連まちづくり等の事業だけでなく、技術に関する全般と特命による重要施策も加わりました。今後も社会経済情勢の変化に対応した政策を推進するとともに、行財政運営の効率化を図ってまいりますので、よろしくお願いします。

さて、箕面のまちは明治43年(1910年)の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の開通以後、鉄道とともに発展してきました。鉄道が単なる輸送装置ではなく、まちを支え続けるスーパーインフラとして、箕面のまちそのもののあり方に影響を与えてきました。
箕面の発展の礎となり、実に1世紀にわたって箕面のまちや人の暮らしを支え続けてきた鉄道と箕面のまちづくりの沿革をお知らせしたいと思います。今回は明治時代についてです。


当時(明治時代後期)の箕面駅付近


 

●箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の開通
明治43年(1910年)3月10日に、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開業しました。
当時、梅田から農村地帯を経由して紅葉(箕面)や温泉(有馬)の観光名所を結ぶ路線ということで、「遊覧電車では利用者が少ないのではないか?」など、誰もが鉄道開業に対して消極的だったそうです。

それを覆すアイデアとして、観光名所を結ぶ路線という考えだけでなく、人口が明治33年に95万人から明治44年には127万人と増加が著しかった大阪市内の狭い住居の暮らしと比べ合わせ、「郊外に住宅地を新たに作り、その居住者を市内へ電車で運ぶ」という、その後の私鉄経営の基礎となる考えに至り、最初の路線として梅田ー宝塚間の宝塚線と石橋ー箕面間の箕面支線が開業しました。

箕面支線の開業時は、すでに大阪府営箕面公園となっていた箕面山の玄関口に、箕面駅(当時の駅名は箕面公園駅)のみが開設されました。

 

 

 

 

●箕面駅はラケット型線路
箕面駅(当時の駅名は箕面公園駅)の構造はとてもユニークなもので、線路はテニスのラケットのような形で降車場と乗車場が別々につくられ、折り返しせずに石橋駅に戻れるものでした。
当時の鉄道技術では、電車を折り返す設備器械もあったようですが、乗客に対するアトラクション効果を狙って、ラケット型線路を作ったとも言われています。


  当時のラケット型線路と建物             現在の地形図に重ねたラケット型線路の位置

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

山手(北側)から見た箕面駅とその周辺

 

アトラクション効果を更に高めるため、降車場から箕面公園に向かう滝道の入り口には二本の電飾塔(金星塔)も作られていました。塔には、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の「M」と「A」を組み合わせた社章が付いていました。

 

 


●箕面駅の周辺は観光地化
◆箕面公会堂は、明治44年(1911年)4月16日に劇場として開館しました。ラケット形線路内の運動場南端に建てられ、建物の中央部分には屋根がない回廊様式の建物でした。
この建物は、大正8年(1919年)に宝塚に移築され、歌劇場として活用されたようです。

 

◆箕面郵便局は、明治43年(1910年)8月21日に開局しました。電飾塔(金星塔)の西側に建てられた洋館で、玄関が飛び出し、2階にはバルコニーもある六角形のユニークな形状の建物です。

 

◆カフェパウリスタ箕面喫店は、明治44年(1911年)6月25日に開店しました。電飾塔(金星塔)の東側に建てられた洋館で、建物の東西の壁にはカフェーパウリスタのマークがついていました。
専門店としてコーヒーを提供する店としては、大阪で1、2を争うほど早い時期の開店で、カフェーパウリスタでは店のことを「喫店(きってん)」と呼んでいたそうです。

 

 


◆箕面動物園は、明治43年(1910年)11月1日に開園しました。場所は、現在のみのおスパーガーデンのあたりで、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が設置しました。
箕面動物園は面積がおよそ3万坪(約10万平方メートル甲子園球場総面積の約2.5倍)もある日本一の動物園と宣伝されました。


山の地形を活かして動物を配置したほか、当時珍しかった噴水や観覧車などの施設があり、園内各所には季節の花木が植えられていました。眺望が良かったのも人気だったようです。

 

箕面動物園は、大正5年(1916年)3月31日に閉園します。その後しばらくは箕面駅前ラケット形線路内運動場に動物を移し、無料公開しました。ゾウやトラなど大型の動物は、前年に開園していた天王寺動物園にひきとられたようです。


◆観覧車は、明治44年(1911年)7月15日からの納涼台開きにあわせて、営業開始しました。
箕面動物園内の山腹に設置され、観覧車には座席がなく、立ち乗りでした。観覧車の外側には二重に電飾がついており、夜になると電気がともり、山腹に輝く観覧車が見えたと思われます。
同年7月13日付け大阪朝日新聞広告では、「涼しい空をぐるぐる大廻転車」とあります。


 

 

●桜井駅の開設
桜井駅は、箕面駅より約1か月遅れの明治43年(1910年)4月12日に開設されました。当時は、駅から東の牧落踏切までの線路は、旧西国街道(現・市道桜井一番通り線)の南端に沿って敷設されていました。

箕面支線は軌道条例(現・軌道法)により整備されたため、路線のどこかで道路と線路を併用する必要があったため、桜井駅付近の旧西国街道南側に用地を確保して併走させたと言われています。

しかし、牧落踏切あたりが急カーブだったことなどから、大正15年(1926年)ごろに道路と併走せず専用線として、さらに南側に変更して現在の位置になったと言われています。

現在の桜井駅から牧落踏切までの旧西国街道(現・市道桜井一番通り線)は、以前の軌道部分も道路となったことから広い道路となっています。

現在の地形図に重ねた開業当時の線路位置

 

●桜井駅の周辺は住宅地化
桜井住宅地は、当時の桜井駅のすぐ北側に位置する約18.1haを箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が開発し、明治44年(1911年)6月15日に分譲を開始しました。箕面における最初の大規模開発であり、住宅都市へと歩む第一歩となった住宅地です。

「郊外に住宅地を新たに作り、その居住者を市内へ電車で運ぶ」との考えのもと、鉄道の建設と同時に進められた沿線の宅地開発としては、池田室町住宅地(約8.9ha)に続く2番目です。
新しい住宅地に用意する家屋にもこだわり、土地の豊かな郊外らしく、長屋ではなく広い区画の一戸建てとし、また郊外では石油ランプでの生活も珍しくなかった時代に電灯の設備も用意し、場所・家屋ともに豊かな暮らしを提案されていました。

さらに、持ち家が資産家など一部の層に限られていた時代に、「頭金として売値の2割程度、残りを約10年間月賦で払い込むと住宅の所有権を移転させる」という、土地・住宅を担保とした現在の住宅ローンの走りとも言える住宅販売方法を提案して、サラリーマン層などの多くの人たちが、マイホームを持って豊かに暮らす機会を作り上げられました。

当時の桜井住宅地は、土地付きの分譲住宅が1,200円の均一価格で販売され、「保証金200円を払うと大阪市内の家賃と変わらない月12円で、土地・建具つきの家が買える。」と広告が出されています。

この方法は見事に功を奏し、理想の沿線住宅地を増やし、鉄道の利用者も増加していきました。

 当時の桜井新市街案内

 

以上が、明治時代の鉄道と箕面のまちづくりです。鉄道を線として考えるのではなく、面として捉え、観光地化だけでなく、気候も空気も水も風景も良い“健康な生活がいとなめる”郊外住宅地での夢と憧れのライフスタイルを提供するという地域・都市戦略であったと考えられています。
次回は大正時代から昭和時代についてお知らせしたいと思います。

 

 

箕面市では、2017年4月1日(土曜日)から2017年7月31日(月曜日)まで、「病気やけが、何かあったら♯7119救急安心センターおおさかへ!」を統一キャンペーンとして実施中です。 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2068

Trending Articles